最近はClaudeと一緒に、記事について考える時間が増えている。楽しくて、すぐ過ぎてしまう。
カテゴリの構成を見直したり、メニューの並びを直したり、画像の設定を確認したり。地味な作業ではある。そして、その合間に自問自答を繰り返す。
「自分はブログをこのまま作っていけるのか。つづける意味があるのか。」
繰り返しの日々の中で感じること
勤務医の毎日。病棟を回り、外来や検査をこなし、カルテを書き、時折当直をする。それを何年も繰り返してきた。
若い頃は土日も朝に病棟へ顔を出し、患者さんの様子を確認してから休むようにしていた。たとえ短い時間でも、一目見るだけで安心できる。見ないまま一日を過ごすと、どこかで気になってしまう。心配性なんだと思う。後輩が育って任せられるようになってからも、その感覚は残っていた。
患者さんの役に立てている充実感や、やりがいはあった。でも、自分の生活のほとんどが病院と勉強で埋まっていた。
家族と過ごす時間はある。けれど、そこでも頭のどこかで明日の患者さんのことを考えている。集中して楽しむ趣味もなく、キャンプにも何年も行けていない。サウナが唯一の息抜きだけど、一瞬ととのっても、またすぐ日常に頭が切り替わる。
ずっと、なんとなく閉塞感があった。毎日仕事が終わると、今日も無事に終わったな、と感じていた。
閉塞感の正体
ぼくが感じていた閉塞感は、「気持ちを外に出していなかった」ことから来ていたのかもしれない。
医師という仕事は、患者さんの気持ちを感じとることだとぼくは思っている。表情や言葉から、何に困っているのかを考える。でも、自分自身の悩みや感じていることを、あまり言葉にできないでいた。同僚にも、家族にも、「最近、なんか窮屈なんだよね」とは言いにくい。弱音に聞こえるかもしれないし、ぼくの考える理想の医師像ではないと思ってしまう。
でも、ブログに書き始めて変わった。
シェパードとの思い出を書いたとき、忘れていた感情が蘇った。ベッドサイドの直感について書いたとき、なぜ医師を続けているのか、改めて考えることができた。
書いていると、気づけば自分と向き合っていた。
返ってきた言葉で、自分の気持ちに気づく
面白いのは、この気づきがAIとの対話の中で生まれたこと。
Claudeはぼくの気持ちを「理解」しているわけではないだろう。でも、考えを言葉にして投げかけると、整理されて返ってくる。それを読んで「あ、自分はこう思っていたのか」と気づく。
ブログは、日記とはちょっと違う
メモや日記が頭の整理になる、というのはよく聞く話だ。書き出すことで不安や悩みが落ち着く、と。ブログも同じだろうと思っていたけれど、書いてみると少し違った。
記事を書いているとき、ふと「これを読んだら、あの人はどう感じるだろう」と考える瞬間がある。シェパードとの思い出を書いたときは、家族の顔が浮かんだ。サウナの記事を書いたときは、サウナが好きな友人の顔が浮かんだ。記事ごとに、想像する読者は違う。
誰かのことを思いながら「これを読んだらどう感じるだろう」「この言葉は伝わるだろうか」と想像する。そうしているうちに、自分でも気づいていなかった気持ちが引き出されてくる。
日記にはこの作業がない。書いた瞬間に閉じてしまう。ブログは読まれるつもりで整える手間がある分、自分の気持ちも一段深いところまで降りていける気がする。もちろん、誰かが読むかもと思うと書けなくなる題材もあるから、日記とブログは使い分ければいいのだろう。
同じように感じている人がいたら
日々の仕事に追われて「自分の気持ちを後回しにしているな」と感じている人へ
ブログでなくてもいい。日記でも、SNSのつぶやきでも、友人への長いメッセージでも。頭の中にあるものを外に出すだけで、少し景色が変わることがある。
ぼくの場合は、たまたまブログとAIだった。「世界が開いた」という大げさな表現が、大げさじゃなく感じられた。それくらい、石橋を叩いても渡らないと自他ともに認める慎重派のぼくにとっては大きな変化だった。
自分の体験を、自分の言葉で書く。それだけで、書いている本人は救われる。そしてブログにすることで、同じように感じている誰かにも届いたら嬉しい。
そう考えながら、今日も書き綴る。



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