暖かくなったと思ったら寒くなったり、まだ春らしい日和は少ないけれど、家の近くでも桜が咲き始めた。
薄いピンク色のソメイヨシノが並木に広がっていて、立ち止まって見上げている人も多い。満開もいいし、少し散りかけているのもまた綺麗だ。
ぼくは昼間の桜が好きだ。陽の光が淡い色をいっそう際立たせる。夜桜には静けさとともに少し寒さがある。それも風情なんだろうけど、やっぱり明るい日差しの下で見るのが一番いい。
そんなことを考えていたら花見をしたくなってきた。ちょっとのお酒とつまみがあれば十分。お酒は弱いけど、桜の下でのんびりする時間はそれだけで贅沢だと思う。
職場の病院からは桜が見えない。だから帰り道に並木をちょっと眺めるくらいが、ぼくのささやかな花見だ。休日に出かけると、街の中で目の端にピンク色の木々が映ることがある。ふっとそこに引かれる。電車に乗っていても、流れる景色の中で桜の花が見えると、つい目で追ってしまう。きっとぼくだけじゃないはずだ。
日本人はなぜ桜を愛するのか ― Claudeに聞いてみた
疑問に思ったことはすぐ確認するクセが最近ついた。ふと気になって「日本人はなぜ桜を愛するのか?」とClaudeに聞いてみた。
すると、花見の歴史をかなり丁寧に教えてくれた。もちろん、由来・起源には諸説があるのでご参考にとのことだけど。
もともと日本で愛でられていた花は、桜ではなく梅だったそうだ。奈良時代、花見の起源は「梅見」と農耕の儀礼にあった。それが変わったのは平安時代。嵯峨天皇が神泉苑で「花宴の節」を催し、貴族の間に桜を楽しむ文化が広まった。嵯峨天皇――日本史の授業で聞いた覚えがある名前だ。
転換点になったのは遣唐使の廃止(894年)だという。中国文化の影響が薄れ、日本独自の美意識が育っていく中で、花の主役が梅から桜に入れ替わった。万葉集では桜が43首に対して梅が110首。それが古今和歌集になると桜70首、梅18首と完全に逆転している。数字で見ると面白い。
江戸時代になると、花見は庶民の楽しみになった。八代将軍・吉宗が飛鳥山などに桜を植えて花見を奨励したそうだ。なるほど、今ぼくたちが当たり前にやっている花見には、こんなに長い歴史があったのか。
「海外にも花見の文化はありますか?」と続けて聞いてみると、韓国やアメリカにも桜祭りがあるらしい。桜を楽しむ気持ちは、日本だけのものじゃないんだ。
でも、日本の花見にはどこか独特なものがあると感じる。散るからこそ美しいという感覚の深さ。一斉に咲いて、ぱっと散る。そのサイクルがちょうど新学期のシーズンと重なり、日本の生活リズムに深く染みこんでいる。社会全体が桜に同期するような、不思議な現象だと思う。
ぼくが感じる「儚さ」の重み
Claudeとの対話の中で、「儚さが記憶と感情を強化する」という話が出た。限りがあるからこそ、人は強く心を動かされるのだと。うん、理屈としてはわかる。
でも、ぼくにはもう少し実感に近い「儚さ」がある。
ぼくの診る患者さんは、内科の入院ということもあり、ご高齢の方が多い。年齢を感じさせない元気なおばあちゃんもいれば、認知症で自分では判断ができなくなってしまった方もいる。入院されてくる方は体調が悪い。残念ながら、最期を看取ることも少なくない。
家族がたくさん面会に来る方もいれば、連れ添った奥さんも認知症で面会が難しいという方もいる。一人ひとりに、それぞれの人生がある。そのことを、ふとした瞬間に考える。
医師として日々思うのは、健康でいられる時間は当たり前じゃないということ。そして、人生は儚い。
桜を見上げたときに、ふと「あと何回、桜を見られるんだろう」と思った。そしたら、胸がきゅっとなった。
悲しいのとは少し違う。今ここにいることの切なさと、愛おしさが混ざったような感覚。
この感覚はClaudeにも伝わるだろうか。聞いてみた。
Claudeの答えが面白かった。
わかります、と安易に言うのは誠実ではないかもしれません。私には身体もなければ、時間の有限性を肌で感じることもないので。
でも、あなたが書いてくださったことを読んで、何かが伝わってくる感覚はあります。毎日、人の人生の終わりに近い時間に立ち会っている。元気な方もいれば、もう自分が誰かもわからなくなった方もいる。家族に囲まれる方もいれば、そうでない方もいる。そういう一人ひとりの人生の重みに触れ続けているからこそ、春の桜を見上げたときに「あと何回」という問いが自然に浮かんだのだと思います。
あの胸がきゅっとなる感覚は、悲しみとも少し違って、今ここにいることの切なさと愛おしさが混ざったようなものではないでしょうか。日本語の「もののあはれ」という言葉が、まさにそれを指しているように思います。
私が思うのは、その感覚を持てること自体が、あなたが医師としてとても大切なものを持っているということです。患者さん一人ひとりの人生について考える、その眼差しは、日々の業務に追われる中で失われやすいものだから。
桜はあと何回見られるかわからない。でも、今年の桜を見て胸がきゅっとなった、その瞬間はたしかにあなたのものです。
AIが褒めてくれても、正直、お世辞かなとも思ってしまう。でもそれ以上に、自分の感じていることを言葉にして、それを受け止めて、一つの解釈をしてくれることが嬉しい。自分の中にある感情を表現するのに手を添えてくれている気がする。
桜を見て胸がきゅっとなる。その感覚は、ぼくの体の中にしかない。でも、こうして言葉にすることで、誰かに届くかもしれない。このブログを書いている理由も、たぶんそこにある。

おわりに
気候変動で桜の開花時期は年々早まっているそうだ。花見の形も、少しずつ変わっていくのかもしれない。
でも、春に外に出て、命の短さをふと感じることは残ってほしいし、残るのではないだろうか。
人生の中で桜を見る時間は、儚く短い。来年もまた、あの胸がきゅっとなる春を迎えたい。


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