カテゴリ:医師のひとりごと
AIと暮らす日々を送っていると、「AIができること」ばかりに目が向きがちになる。そして、バランスを保つように逆のことも考える。AIには絶対に再現できないものって何だろう、と。
そのとき、思い出したのは、実家にいたシェパードのことだ。
中学生のぼくと、シェパード
シェパードがうちに来たのは、ぼくが中学生の頃だった。大型犬を飼うのは大変だと聞いてはいたけれど、実際に一緒に暮らし始めると、その「大変さ」がそのまま生活の一部になった。
とにかく散歩が必要な犬だった。毎日、たっぷり歩かないと気が済まない。ある日、「今日は好きなだけ歩かせてやろう」と思って散歩に出た。すると、どこまでも歩く。どんどん自宅から離れていく。気づけば見慣れない景色の中にいて、先に力尽きたのはぼくの方だった。結局、親に電話して迎えに来てもらった。
あのときのシェパードは、まだまだ歩き足りないという顔をしていた。体力の差を思い知った日だった。
今思えば笑い話だが、あのとき感じた「こいつにはかなわない」という気持ちは、なんだか嬉しかった。自分より強い存在がそばにいる安心感。中学生のぼくにとって、シェパードは友達であり、兄貴分であり、いつしかかけがえのない親友になっていった。
家族には優しく、他人には容赦ない
不思議なものだった。家族に対しては本気で噛むことが一度もなかった。お手をするとズシッと大きな手が乗る。重いけれど、やさしい。大きな体で寄り添ってくるときには、その温かさと重みに安心感があった。
一方で、配達の人が来ると空気が一変する。飛びかかる勢いで吠えるので、初めて来た人は大抵腰を抜かしていた。あの瞬間的な切り替わりは、訓練で身につけたものではなく、「この家族を守る」という本能だろう。
ぼくの親友が家族を見つめるあの穏やかな目と、外敵に向けるあの迫力。その豹変は、データから学べるものではないと思う。
老いていく姿を見守ること
年を重ねるにつれ、シェパードの足は徐々に動かなくなっていった。あれだけ歩くことが好きだった犬が、静かに横たわっている。散歩に連れ出そうとしても、立ち上がるのが精一杯になる日が来た。
でも最期は穏やかだった。時折、苦しそうに見えることもあったけれど、家族がそばにいるとき、安心したような表情を見せてくれた。あんなに激しく吠えていた犬が、晩年は静かに家族のそばで過ごしていた。最後まで、ほんとうに穏やかだった。
悲しかった。でも、悲しいだけではなかった。命が老いていく過程を間近で見ること、それでも毎日そばにいること。そこには「データでは測れない学び」があったと思う。
医師という仕事をしていると、人の老いや死に向き合う場面は多い。でもぼくは、それよりも先に、シェパードを通じて「命には限りがある」ことを学ばせてもらっていた。
ペットロボットでは感じられないこと
最近はペットロボットの技術も進んでいる。AIが搭載され、飼い主の感情を読み取り、適切な反応を返してくれるという。それはそれで素晴らしい技術だと思う。
でも、本物の犬と暮らす中で感じるものは、もっと複雑だ。散歩で力尽きた日の悔しさと笑い。家族を守ろうとする本能に触れたときの誇らしさ。老いていく姿への切なさ。そして、いなくなった後の静けさ。
それらは全部、相手が「生きている」からこそ生まれる感情だ。予測不能で、コントロールできなくて、時に理不尽で、だからこそ深い。AIが感情を「模倣」することはできても、こちらの心の奥に手を突っ込んでくるような感覚は、生身の存在にしか生み出せないと思う。
こうやって書いていると
正直、このブログを書いていると、少し寂しくなる。時が経ち、医師として多くの人の人生の最期にかかわり、さまざまな経験をしてきていても、こうやって思い返すと、喪失感が出てくる。今もキーボードを打つ手が止まる。でもそれは、それだけ大事な家族だったということだ。寂しさを感じられること自体が、一緒に過ごした時間の証だと思う。
AI時代になっても、変わらないものがある。触れて、嗅いで、温かさを感じて、別れを悲しむ。そういう経験の積み重ねが、ぼくたちを人間にしているのだと思う。
今日は、懐かしい思い出を振り返ることができた。
でもこうして振り返れたのは、AIとブログを始めたおかげだ。



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