「ととのう」って、結局なんなのか ——後編・消えない理由

医師のひとりごと

先週は、「ととのう」を身体のしくみとして書いてみた。

不快を通らないと、ごほうびは出てこない。
そのしくみは、サウナだけのものじゃなく、運動とも修行とも繋がるものだった。

後編では、そこから少し離れて、もっと大きな問いに足をのばしてみたい。

なぜぼくたちは、わざわざお金を払ってまで、苦しみを買い求めるのか。

そして、AIが何でも便利にしてくれる時代に、サウナみたいな営みは消えるのか、それとも残るのか。

少し長くなるけれど、よかったら付き合ってほしい。

ぼくたちは、失った「負荷」を買い戻している

文明の歴史は、便利さを追求していく歴史だ。

昔の暮らしは、寒さ、暑さ、空腹、肉体労働といった負荷に満ちていた。

そして、それが解除される心地よさ——焚き火のあたたかさ、ごはんのありがたさ、働いたあとの休息——も、暮らしの中に自然に埋め込まれていた。

でも、空調が寒暖を消し、生産効率や輸送により空腹を消し、機械が肉体労働を消した。

負荷が消えると同時に、負荷が解除される心地よさも、ぼくたちの毎日から静かに失われていった。

そこから、今度は退行するかのような現象がおこる。
豊かになった社会ほど、「あえての負荷」に価値が生まれるのだ。

飽食の現代、断食は贅沢な健康法になる。
デスクワークの現代、ジムは商品になる。

負荷は、それが希少になった瞬間に、価値を持つ。

サウナも、ファスティングも、あえての寒中水泳も、筋トレも、みんな同じ力学の現れだと思う。
ぼくたちは、文明が取り除いた負荷を、わざわざお金を払って、人工的に買い戻している。

「失われた負荷を、自分から導入し直している」とでも言えばいいだろうか。

AIは「負荷を肩代わりする」流れの、最終段階かもしれない

そう考えると、いま起きているAIの広まりが、まったく違って見えてくる。

これまで技術が取り除いてきたのは、だいたい二種類の負荷だった。

ひとつは、身体の負荷。
機械が肉体労働を肩代わりした。

もうひとつは、頭の負荷。
計算機が、計算や記憶を肩代わりしてきた。

そしてAIは、最後まで人間に残されていた頭の負荷——考えること、書くこと、判断すること——を、いままさに肩代わりしようとしている。

ここで、ぼくはひとつ大事な区別があると思う。
負荷には、外に出せるものと、出せないものがある。

計算や情報処理は、「ぼく」から切り離して処理できる。
だからこそ、機械やAIに渡せる。

ところが、寒さ、暑さ、空腹、痛みは違う。
これらは、感じている本人そのものにくっついた経験で、本人を切り離した瞬間に消えてしまう。

誰かに代わりに寒がってもらっても、ぼくの寒さは消えない。
誰かに代わりに痛がってもらっても、ぼくの痛みは消えない。

つまり——身体の負荷は、そもそも外に出せないのだ。

これは、技術がどれだけ進歩しても変わらない。
AIは「考えること」を肩代わりできても、「身体を持って世界に晒されること」は肩代わりできない。

サウナの水風呂で「熱くて出たい」と感じる、あの不快。
あれをAIがぼくの代わりに引き受けることは、原理的にできないのだ。

「完全なバーチャル」なら、いいのか

ここで、当然こういう反論が出てくる。
「VRや脳への刺激が進歩すれば、寒さの体験すら人工的に作れるんじゃないの」と。

今回も、あれこれClaudeに聞きながら調べた。
そうしているうちに、ちょうどいい思考実験に行き当たった。

ロバート・ノージックの「経験機械」だ。
望むどんな経験でも完璧に与えてくれる装置に、一生つながりたいか、という問い。

おもしろいことに、多くの人はこれに「いやだ」と答えるらしい。
中身が同じでも、「本物の身体で、本物の世界に晒された」という出どころに、人は価値を置いてしまうのだ。

でも、ぼくが一番なるほどと思ったのは、哲学よりも、物理のほうからの答えだった。

ひとりの人間の感覚すべてを、リアルタイムで完璧に再現し続けるには、とんでもない計算が要る。
計算にはエネルギーが要り、エネルギーを使えば熱が出る。

皮肉な話だけど、寒さを本当に感じさせる一番安い方法は、結局、本当に寒くすることになる。

現実を完璧に偽装するより、現実をそのまま体験させるほうが、たぶん桁違いに省エネだ。映画の『マトリックス』みたいな完全な仮想世界は、コストの面から見ると、案外わりに合わないのかもしれない。

だから、損得という即物的なところからでも、「本物の身体経験」は選ばれ続けるのではないか。

ぼくには、そう思えた。

つまり、サウナは消えない

ここまでを、ざっくりまとめてみる。

頭の負荷——計算や記憶や情報処理は、AIに明け渡していくだろう。

でも、寒さや痛みそのものは、理屈の上で外に出せない。
そして、それを完璧に偽装することは、物理の上で割に合わない。

どちらも、人間の側に残り続ける。

そしてサウナは、ちょうどその「残るもの」のど真ん中にある営みだ。

だから消えない。

AIがどれだけ賢くなっても、エネルギーがどれだけ安くなっても——そう、エネルギーがタダになることはない——変わらないものがある。

身体に負荷を感じること。それは人間にとって、一番安くて確実な「本物の経験」への入り口であり続けるのだろう。

しかも、前編で触れたあのしくみを、思い出してほしい。

熱さの不快がまず出て、それがあるからこそ、あとの気持ち良さがより感じられる。

脳の中では、ダイノルフィンという「不快」の物質が先に動いて、エンドルフィンのような「快楽」の物質を呼び込んでいるらしい。
これは、まだ証明しきれていない見方ではある。

でも、もしこの順番が本当なら、サウナの「ととのい」は、ショートカットできない。

不快を耐えるしかない。
不快を通らないとごほうびが出ない。

この順番のおかげで、サウナはそもそもズルできない経験なのだ。
そして、ズルできないこと自体が、答えが一瞬で手に入る時代には、かえって価値になる。

「本物」って、そもそも何なんだろう

ここまで読んで、こう感じた人もいると思う。

「人間は本物を求めてる。ただ現実がそれを完全には叶えてくれないから、妥協してるだけじゃないの」と。

ぼくもそう感じる。

人間は本来、本物を求めている。
だけど本物は手に入りきらないから、不完全な現実で折り合いをつけている。

ただ、この立場には、なかなか手強い反論がある。

そもそも「本物」なんていう基準は、本当にあるのか。
それは、あとから作られた物語じゃないのか。

前編で書いたように、「ととのう」という言葉は2010年代まで存在しなかった。
同じ温冷交代浴を、フィンランド人は何百年もやってきたのに、そう呼ばなかった。

「本物のととのい」という基準が文化的に作られたものなら、
ぼくたちが「これは劣化版だ」と感じる、その元の型はどこにあるのだろう。

もっと意地の悪い反論もある。

「本物を求める」という気持ちそのものが、進化がぼくたちに見せている都合のいい錯覚にすぎないんじゃないか。
サウナで「本物に触れた」と感じても、脳の中ではただダイノルフィンとエンドルフィンが回っているだけで、「本物に触れた」という意味づけは、脳があとから付けた物語かもしれない。

これらの反論に、ぼくはこう返したい。

言葉はあとから来たのかもしれない。
でも、その言葉が指している身体の経験——あの熱さ、あの冷たさ、あの落差——は、言葉より前から確かにあった。

そして、たとえ脳の活動として説明がついたとしても、「区別がつかなくても、本物につながっていたい」という直感を、ぼくは手放したくない。

不完全な「いま」こそが、本物だった

でも、いちばん深く心に入った反論は別だ。
東洋の思想からだ。

「本物の理想があって、現実はその劣化版だ」——その発想そのものが、完全なものをどこか別の場所に置いて、現実をその影だと見なす、西洋的な考えなんじゃないか。
禅は、そう問いかけてる。

禅の核心は、
「この、不完全な、いま、ここ」
それを本物とすることだ。

欠けたまま、移ろうまま、そのものを肯定する。

侘び寂びは、不完全さや、うつろいの中にこそ価値を見る美意識だ。

割れた茶碗を金継ぎして、割れたことも含めて美しいとする。

そうすると、「妥協」という言葉づかいそのものが、問い直される。

サウナのあとの、不完全で、すぐ消えてしまう、言葉にもならない「ととのい」。
それは「本物の悟りの劣化版」なのか。
それとも、移ろい、消えるからこそ、本物なのか。

サウナーが「ととのいは長く続かない、だからまた来る」と言うとき、たぶん無意識に、無常を肯定している。

ここで、ぼくの立場はこう変わった。

人間は本物(完全)を求める。
でも、それは叶わない。
だけど、叶わないこと、消えていくことそれ自体が、この有限な人生における本物なのだ。

死があって、限りがあるから、生きていることは素晴らしい。

出会いがあって、別れがある。
一期一会。

——昔から、数えきれないほど語られてきたことだ。

なぜ、古い真理は擦り切れるのか

ただ、ここでひとつ引っかかることがある。

「一期一会」も「死があるから生が輝く」も、何百年も語られて、誰もが知っているのに、なぜ陳腐な決まり文句として擦り切れてしまうんだろう。

その理由は、言葉として正しすぎるからなのかもしれない。

命題としては完成していて、聞いた瞬間に「知ってる」で処理が終わってしまう。
頭で分かった瞬間に、体験から切り離されて、ただの標語になる。

法事で聞く「無常」と、親しい人を看取った夜に身体で感じる「無常」は、同じ言葉でも、まるで別物だ。

ここで、この長い話が、一周して帰ってくる。

前編で見た、あのしくみ——耐えるという身体の負荷を通らないと、ごほうびは出てきにくい。
あれはじつは、この問題のミニチュアだったのだ。

「一期一会」も同じで、言葉だけショートカットして受け取ると、ぬるいサウナのように、何の変化も起こさない。

水風呂をくぐらないと、ととのわない。
有限性も、身体で、負荷とともに引き受けて初めて、標語が体験に戻る。

つまり、サウナという現象が、なぜ続くのか。

それはたぶん、擦り切れて標語になった古い真理を、身体を通して、もう一度「本物」に戻す装置だからだ。

昔の人は、暮らしの中の負荷——寒さ、飢え、死の近さ——によって、否応なく身体で分かっていた。
ぼくたちはそれを失ったから、わざわざサウナに通って、人工的に有限性をくぐりにいく。

「負荷の再導入」は、ここで「真理を、もう一度身体に戻すこと」という意味を帯びる。

おわりに——病床と、サウナ室で

最後に、医師としてのぼくの本音を書いておきたい。

終末期医療の現場は、この、もっとも逃れられない形で「真理が身体に戻る」場所だ。

サウナは、自分から選んで触れにいく有限性。
看取りは、避けられずに触れる有限性。

方向は逆だけれど、人がそこで本物の何かに触れる、という一点で——ぼくが日々病床で見ているものと、サウナ室で人々が求めているものは、深いところでつながっている。

陳腐な真理は、間違っているから擦り切れたんじゃない。
身体を通さずに受け取られすぎたから、擦り切れたのだ。

それを身体に戻す営みは、かたちを変えながら、人間がきっと手放さないものだろう。

だから、AIがどれだけ進歩して、世界がどれだけ便利になっても、サウナのような営みは消えないと、ぼくは思う。
むしろ、効率化が極まるほど、人はそれを求めるようになるはずだ。

便利さが奪っていくのは、答えを得るまでの手間だけじゃない。
それを身体で引き受ける、という経験そのものだからだ。

水風呂は、今日も冷たい。
そして、その冷たさだけは、誰にも代わってもらえない。


※この記事は、勤務医個人の体験と、考えごとをまじえた感想です。サウナの感じ方には個人差があります。とくに、激しい呼吸法を水のある場所で行うことは避けてください(前編参照)。体調に不安のある方は無理をなさらないでください。

参考にしたもの:

  • ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』(経験機械の思考実験)
  • ストレスの「不快」とダイノルフィン/κオピオイド系(前編より再掲):Land BB, et al. “The Dysphoric Component of Stress Is Encoded by Activation of the Dynorphin κ-Opioid System.” J Neurosci, 2008;28(2):407.

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