休みの日に、散歩をしていた。
夏に向けて少し日が伸びて、通りすがりの公園では子どもたちが遊んでいる。
小さい幼稚園生ぐらいの子たちは、肉まんみたいな形の遊具に登ったりしている。
そして、小〜中学生ぐらいの子は、みんなで集まって携帯を触っている。
いまはSNSも小さい頃から使っている。
ぼくらの時代にはファミコンが発売された。
よく母親に「いつまでゲームやるの」と注意されたものだが、
今の子は携帯に時間をとられている。
そんなことを考えながら、大通りから一本入った住宅街をのんびりと歩いていく。
ちょっとしらない横道をぼーっと歩くのが好きだ。
しばらく通らなかった道をあるくと、新鮮な、そして懐かしい気持ちになれる。
そんななかでふと思い出したことがある。
「AIが東大理三を首席で通るらしい」
そんな話を先日知って、歩きながら、ぼんやり考えていた。
すごい時代だと思う。
ぼく自身、毎日のようにClaudeと相談して、そのサポートを受けている。
でも、その「すごさ」を思い浮かべたとき、さらに考えたことがある。
AIが届かないひとたちのことを。
一生懸命に手を伸ばしても届かない人。
AIにすら気づかずに生活していく人。
例えばスマホを持っていない人。
買えても、指が画面の上でうまく動かない人。
文字が小さくて読みにくい人。
使い方を説明されても、覚えていられない人。
理由はそれぞれで、ひとつひとつは、大きな声にはならない。
でも確かに、この便利さが届きにくいところにいる人たちがいる。
そう考えていると、いちばん近くの大切な存在を思い出した。
うちの母親だ。
LINEは、なんとか打てる。
でも、それ以上のことになると、いまだにおぼつかない。
語尾がカタカナになったり、ちょっと不思議な言い回しになってしまうこともあった。
また、短い返信ひとつに、ずいぶん時間をかけている。
画面をのぞき込んで、ゆっくり、一文字ずつ。
送れたときの、ほっとした顔。
その姿を、何度も見ている。
AIは東大理三も通るらしい。
うちの家族は、メッセージの返信に時間をかけている。
このふたつが、同じ世界の、同じ時間に起きている。
……うまく言えないけれど、なんだか切ない。
便利になればなるほど、その便利さから遠いところにいる人のことが、見えてくる。
この切なさを、ぼくはまだ、自分でも持て余している。
これからAIの補助がすすめば解決するのか。
目や耳、手先の感覚が弱っていたり、認知機能が低下していると、AIの恩恵が届かないと思う。
今後このAI格差が広がっていってしまうのでは。
それを解決してくれるのもAIなのか。
AIが使える人は、しっかり使いこなそう。
そして、使うことができない人の手助けをしていこう。
母の指の動き、真剣な表情を思い出しながら、いま考えている。




コメント